私たちが普段なにげなく手に触れているオーガニックコットン。
その背景には、一人の女性の情熱と、
地球環境を守ろうとした先駆者たちの知られざるドラマがありました。
自然を愛する少女時代と、害虫被害からの原体験
1955年にアメリカのカリフォルニア州で生まれたサリー・フォックスさんは、自然が大好きな子どもでした。サリーさんが繊維素材に興味を持ったのは12歳の時。手紡ぎに関心がありベビーシッターのアルバイトで貯めたお金でスピンドルを購入して身のまわりにある様々な素材で糸を紡ぐことに熱中しました。
高校時代に、恩師となる昆虫学の先生との出会いがきっかけで昆虫に興味を持ち始め、大学では生物学と昆虫学を専攻しました。
大学卒業後はアメリカ政府のボランティアプログラムに参加し、お米やピーナッツに害を与える環境要因について学ぶため西アフリカのガンビアに派遣されました。そこでDDTなどの殺虫剤の曝露によって健康被害を受け、止む無く帰国を余儀なくされます。
殺虫剤の危険性を身をもって経験することになったサリーさんでしたが、帰国後はカリフォルニア大学で総合害虫管理の修士号を取得しました。
「茶色いコットン」との運命的な出会い
卒業後、カリフォルニアでコットンブリーダーのためのポリネーターとして研究所で働き始めます。1981年のある日、研究所で「茶色いコットン」を偶然見つけました。元々は、害虫に強い「茶綿」の性質を白いコットンに備えられないかという研究用に持ち込まれたようですが、当時、研究所では誰も関心を示しませんでした。唯一サリーさんだけが、害虫駆除の為の農薬が要らず、染料を使用せずとも自然な色を持つ「茶綿」に強く惹かれて研究を始めます。
当時の「茶綿」は繊維の長さ(繊維長)が非常に短く糸にできなかったため、より繊維が長いものに絞って交配を繰り返し、改良を重ねていきました。
借りていたビニールハウスだけでは栽培面積が足りず、自宅や別の土地を借りて仕事以外の時間はすべて手作業で交配作業を行っていたそうです。
孤立無援のなかで守り抜いた茶綿栽培
その後、より繊維が強いもの、色落ちしにくいものなどを選別し交配を重ねたことで品質が向上し、日本の紡績企業やアメリカのデニムブランドで採用されるようになりました。
ところが、サリーさんの茶綿栽培が有名になると、「白いコットンと交配されると困る」という理由で大規模農場から圧力をかけられ、ついには政府からも立ち退きを求められてしまいます。やむを得ずカリフォルニア州からアリゾナ州やテキサス州に追われることになりました。
2000年代に入ると取引先の紡績企業が倒産したり、デニムブランドの経営悪化などによって、突如として出荷予定のない大量の茶綿の在庫を抱えることになり、窮地に立たされます。
そこで出会ったのがいくつかの日本の紡績企業で、その一つが大正紡績さんでした。
海を越えて結ばれた確かな志 — 大正紡績との出会い
大正紡績の近藤健一さんは、以前よりサリーさんの研究に強い関心を寄せていました。1989年に「ニューヨークタイムズ」に掲載されたサリーさんの記事を読み、「世界の3%しかない綿花畑に、全世界で消費される殺虫剤の25%、農薬の10%が使われている」ことを初めて知り衝撃を受けたからです。サリーさんが農薬の代わりに昆虫をつかって綿花栽培をするオーガニック農法を実践していることも知り、伊藤忠商事の方の案内でサリーさんの実験農場を訪れました。
サリーさんから、枯葉剤の使用によって砂漠化した農地や生態系が壊れた土地があることを直接聞いた近藤さんは、サリーさんに賛同することが地球環境を守ることに繋がると考えました。サリーさんと近藤さんの出会いによって、大正紡績さんでは現在までオーガニック繊維の開発や普及に力を入れてこられました。
地球環境を守る想いは国境を越え、確かなものづくりへと受け継がれました。